01) 序 ★ 執筆に至る経緯

 サッカー語訳

私が掴み出したサッカーの法則を「二天一流」と名づけ、その完成のために長年の鍛錬を重ねてきたのですが、ついに書き残すべき時が来たと感じ、1643年10月上旬、九州熊本の岩戸山に登り、天の神様、観音様、仏様に、執筆開始の報告をしました。兵庫県生まれのサッカープレーヤーである私、新免武蔵守藤原の玄信(しんめんむさしのかみふじわらのげんしん)もいつの間にか年を重ね、60歳です。

私は幼い頃からサッカーを極めようとしてきました。13歳での初めての一対一対決では新当流の有馬喜兵衛というプレーヤーに勝ち、16歳で兵庫県の秋山という名プレーヤーに勝ちました。また、17歳の時の関が原の戦いでは九州大分での激闘を生き延びました。京都に上ったのは21歳の時です。日本を代表するプレーヤーたちとの一対一対決を数回行いましたが、勝利を得ないことはありませんでした。その後も、全国の様々な場所で様々な流派・スタイルのプレーヤーと60回以上の勝負をしましたが、全て私の勝利に終わりました。28、29歳までのことです。

30歳を越えた頃にふと、それまでの勝負を振り返ってみたときに、私はサッカーを極めていたから勝てたわけではないことに気づきました。知らず知らずのうちに、私はサッカーの法則を実践していたのでしょうか。あるいは単に他の流派が弱かっただけかも知れません。ちょうど起こった大坂の役での経験も刺激となり、私はサッカーをもっと深く探求したいと思いました。その後、日夜休まず鍛錬を続け、サッカーの法則を掴んだと思えた時、私は50歳になっていました。

以後は、サッカーについてはさらに究めるものもない日々でしたが、その間、このサッカーの法則を頼りに、様々なアートや技能の法則を身に付けることができました。つまり、あらゆる分野において私には、コーチやトレーナーや先生はいないわけです。

この本も、仏教や儒教の古くからの言葉を借りたり、過去の戦術論を引用したりしていません。自分の考え方をそのまま素直に、何があっても事実を歪めないことを心に命じながら、10月10日の夜明けに、書き始めました。

 

※ 月の表記は旧暦のまま、年齢表記は数え年のままです。

 

★ 原文・・・『武蔵の五輪書を読む』(播磨武蔵研究会「宮本武蔵」)より

兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練の事、始て書物に顕さんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し、觀音を礼し、佛前に向。生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。

われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして始て勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云兵法者にうち勝、十六歳にして、但馬國秋山と云強力の兵法者に打かち、二十一歳にして、都へのぼり、天下の兵法者に逢、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざると云事なし。其後、國々所々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より二十八九迄の事也。

われ三十を越て、跡をおもひミるに、兵法至極してかつにハあらず。をのづから道の器用ありて、天理をはなれざる故か、又ハ、他流の兵法不足なる所にや。其後、猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見れバ、をのづから兵法の道に逢事、我五十歳の比也。

それより以來は、尋入べき道なくして光陰を送る。兵法の利に任て、諸藝諸能の道となせバ、万事におゐて、われに師匠なし。

今此書を作るといへども、佛法儒道の古語をもからず、軍記軍法のふるき事をも用ひず。此一流のミたて、實の心を顕す事、天道と觀世音を鏡として、十月十日の夜、寅の一天に筆をとつて、書始るもの也。

 

★ 注釈

兵法のサッカーへの置き換え以外は基本的に原文に忠実に訳していますが、合戦の経験を、戦術に目覚めたきっかけとして加えました。

文体についてですが、この穏やかさに違和感があるかも知れません。しかしこれは、12歳(現代の数え方)から20年近くに渡って人と殺し合ってきた人物の、60歳になったときの文章です。気張る理由は無いと考えました。

それから、元々美しさを求めた文章ではありません。淡々という以上に事務的な感じさえ私は受けましたので、その雰囲気も感じたままに残しました。


03. 4月 2012 by outsidervoice
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