#0005) ひとり共産党宣言

なでしこリーグのINAC神戸レオネッサ対福岡J・アンクラスの試合の中継をテレビで見ていたらハーフタイムに挟み込まれたニュースで自民党の総裁選立候補者の討論会の様子を伝えていました。それを見ていた娘が、

「お父さんは次の選挙でどの党に投票するの?」
と聞いてきました。

少し意外な質問だったのですが普通に答えておきました。
「そうだねえ、次は共産党とかにしようかねえ。」

「きょうさんとうってあったんだ。じみんとうとみんしゅとうしか知らなかったよ。」
という娘の反応で、どうでもいい質問だったことが明白になったのですが、 政治のことは、大人にとってもどうでもいいというか、どうしようもない件となっているのが実際ではないでしょうか。

ここから書くような話はもちろん娘にはしてませんが、私も、自民党にも民主党にも維新の会にも、そして共産党にも、大した興味も期待もありません。

ただ、「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である。」という文で始まる『共産党宣言』第一章が提起した、極めて少数の層に富が集積し多数が貧困に追い込まれる構造的な問題は、今多くの人が大きな問題と感じていることではないでしょうか。1847年の起草ですから、150年以上、問題点は変わらずということでしょうか。

しかし、第二章以降の、欲求不満が溜まってとにかく誰かに喧嘩を吹っかけたい酔っ払いのような、まとまりのない感情的な盛り上がりが予言しているかのように、『共産党宣言』以降の歴史には、混乱の形跡はあっても、解決に向かって進んだような大きな成果は見えません(これに同意しない人は多いと思いますが・・・)。

ただ、『共産党宣言』第一章の不動の問題提起は強く意識すべきというか、社会について考えるのなら、それについて考えればいいんではないでしょうか。

ところで、1800年代の中頃と言えば、ダーウィンが大きなインパクトを与えた時期と重なります。あらゆる反論を意識した上で、気の遠くなるほど緻密で冷静な観察を基本にした揺るがなさと、不明点を正直に不明点として残したダーウィンの理論は、大きな誤解や誤用を経験しながらも、その革新性からは想定できないレベルで社会に受け入れられていきました。

共産主義の方は、ちょっと無茶に結論を急ぎすぎたのではないでしょうか。また、お祭りや戦争のような高揚感を突き進むエネルギーにしたのも間違いだったのではないでしょうか。

わかったような政治用語なんかを使わず、もう一度『共産党宣言』第一章の続きから、真面目に焦らず冷静に緻密にやり直そうという党があるのなら、そこに加担したいと思うのですが、そんなのありませんよね。

「改革」とか「革新」とか、まあ「革命」とか「イノベーション」的なことについて大雑把に語りたがる政治などの世界で目立とうとしている人たちは、「イノベーション」的なものは結果の大きな変化であって、それを引き起こした原因の方を見ると、それまでと同じく小さな地道な変化でしかない、ということに気づいていないと思うんですね。我慢してコツコツやりましょうよ。もちろん、コツコツを持続するための気分的盛り上がりは必要ですが。

 

ところで、INAC神戸レオネッサにコテンパンにされた福岡J・アンクラスですが、まずは、常に次のプレーを考えながらトラップしようと強く思うだけで、ゲームを支配できる時間が増えるのではないでしょうか。あと「過信」を持って試合に臨むというのはどうでしょう。この話は娘にしました。サッカーにほとんど興味が無くてテレビの前から離れて宿題をやっていた娘の記憶には残っていないと思いますが・・・。あと、やっぱり好きでコツコツできることをやった方がいいよ、という話をついでに。脈絡がない展開ですが、「うん」と言ってました。

岩波文庫の『共産党宣言』の表紙には、こんな槍のようなものが描いてありますが、そういうノリが間違いじゃないかと思うんですが、そう思いません?

24. 9月 2012 by outsidervoice
Categories: 体育, 生活, 社会 | Leave a comment

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