#0043) 昔と同じものは無いのは、まあ、当たり前のことか。

娘の通っている小学校の美術展を観てきました。学童全員の作品が一点ずつ体育館に展示してあったのですが、以前に観て憤慨した絵画教室の展示とは違って、ひとりひとりの違いが出ていて、とても楽しめるものでした。

と言っても、全体的な傾向ももちろんあります。アニメの影響と思われる構成とか、それとも関連するのかも知れませんがユーモアがすごく重視されていることとか、作品を自由に作るその自由の扱いに非常に慣れているとか・・・。そういう細かなことの集合の結果は、自分が子どもだった頃の子どもたちの作品の中には見られなかったような作品ばかりとなっています。

ものの掴み方がこんなに違うと言うことは、自分が子どもだった頃の子どもたちと、今の子どもたちは相当違う種類の人間ということではないでしょうか。まあ、育ってきた世界が相当違うわけですから当然ですよね。

 

校庭に出ると、以前に書いた「近所の公園でいつもサッカーをやっている子どもたち」のうち6年生4人が学校のゴールを使ってシュート練習をしていたのですが、身体のコーディネーションというんでしょうか、身体全体の使い方が、それこそ昔の子どもにはあり得なかったうまさなわけです。で、子どもらしい細い身体でありながら、低い弾道の重いシュートをコースを狙って打っている。今サッカー選手を目指している子どもたちは、とんでもなく高いレベルの競争に参加しているわけですよね。

 

話は変わって、「開墾プロジェクト」に関連したことを少しずつ、とりあえず竹のこととか、いろんな農法のこととか、無数のノウハウを今から覚えたくはないので、なるべく細かなそれぞれの事象の元となっていることに絞って、バラバラ調べているんですが、「自然」自体が100年前とは相当違っている感じなんですね(まあ、何が「自然」かは難しいところですが・・・)。「自然に還れ」という言葉を最近聞かなくなりましたが、雲の中目指しているような言葉なので消えていったんでしょうか。

 

ということでありながらも、自分が今までに身に付けたパターンに沿って、いろいろ判断したり行ったりを続けてしまうわけですが、そのパターンの疑わしさを意識しておかないと、人や現実との接し方を間違えるだろうな、という感想を持った一日でした。

 

顔

娘は最近、家ではこんな絵ばかり描いてますが、左右の目の位置関係は・・・これでいいんですかね?

22. 12月 2012 by outsidervoice
Categories: 体育, 図画工作, 理科, 生活, 社会, 総合 | Leave a comment

Leave a Reply

Required fields are marked *


CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください