#0015) 「楽しい」とは、何かを研究していること。そして・・・
#0014で娘が「研究者になりたい」と言った話を書きましたが、それ以来ずっと、「研究者か、いいなあ」と思っているのは私の方です。
娘は、(あらゆる代の卒園生たちの証言から考えて)おそらく日本で最も楽しい保育園に通ったのですが、その「楽しさ」のコアが、娘卒園後4年目にして少しわかってきました。
その保育園の「芋掘り」では、園庭の三輪車やカートやスケボーなどを組み合わせて芋運搬装置を作り、それを持って芋掘りに出かけます。で、いろんな結果が待っています。秋の毎日続く「運動会」では、あらゆる競技の毎回の勝負の後に、一人ひとりがマイクを持って反省の弁や気づきを述べ、勝利の法則を探り続けます。美術ではいきなり針と糸を渡されて、縫い物の仕方を自ら編み出します。海へ行くとライフジャケットを着けて、向うの岩までなんとかたどり着きます。
こんな調子でスキーやスケート、登山なども含む数々のイベントが毎週数回のペースであるのですが、普段遊ぶ森のような園庭の中に散らばる遊具の中にもチャレンジブルなものが含まれていますし、まあ子どもたちは、いろいろと変な遊びを日々生み出しています(まあ彼らは、危険を未然に察知する優秀な保育士たちに見守られているから、こういうことができるわけですが)。
こういう風に書いていると、その園の「楽しさ」=「イベントの多さ」と錯覚してしまいますし、私も、なんとなくそんな風に捉えていましたが、今、考えるとちょっと違いますね。「楽しさ」=「研究し続けること」ですね。いつも目新しいことが目の前に迫ってきますから、園児は、(生き延びるためには)常に研究し続けなくてはならないわけです。当然、ベソをかく子もたくさんいますし、「しんどい」とか「いやだ」とも言うわけですが、でも、卒園して何年経っても数十年経っても「楽しかった」と言うんですね。そして、細かい状況が鮮烈に記憶に残っているわけです。自分の場合の幼稚園の頃の記憶の状態から考えると信じられません。
だから、自分も何かを研究し続けようと思うわけで、何を研究しようと自分は楽しいだろうことは想像できるのですが、しかし・・・、自分の年になると?「楽しいだけでもなあ」ということも思います。娘には「何でもやってみたら」と言いますが、自分にはそうは言えない感じがするのは、なぜでしょうか。
そういえば、Chipと何をやろうと思っていたんだっけ?