#0072) 炭鉱のカナリアとしての酔っ払い

自分は酔っ払うまで飲めない体質でありながら飲み会が嫌いではないので、昨夜も昔から知っている先輩とか仲間とかと飲み食いしていたのですが、酔っ払いの価値について今頃になって明確にわかりました。

というのがタイトルの意図ですが、どういうことかと言いますと、酔いが進んでいくと、発言が非常に鋭くなる段階があるわけです。今まで意識することもなくどっぷり浸かってしまっていた奇妙な価値観を認識させるような、あるいは揺るがすような言葉・・・。これは一般人が気づいていない、この世界という炭鉱に漂う、充満すれば爆発を引き起こしてしまうガスに対する素早い反応ではないかと・・・。実際のカナリアの鳴き方を知らないことに今気づきましたがそれは置いておいて、酔っ払いカナリアの断末魔の鳴き声(たいていは短時間で終わるようです)が、この思い出させたり揺さぶったりする発言だということです。

で、カナリアの場合はそのあとパタリと息を引き取るわけですが、酔っ払いカナリアの場合は、そのあとにどうでもいい迷惑なだけの泥酔者に成り下がります。脈拍ではありませんが価値がゼロになるので、まあ、同じような死と言えるかも知れません。

 

ところで、多くの場合、鋭い「カナリア断末魔発言」をカナリア本人も周囲のカナリアたちも覚えてはいないので、飲めない体質の私などが記録しておかなくてはどこにも残らないということにも、昨夜やっと気づいたわけですが、昨夜、ある酔っ払いカナリアが言っていた事の骨子を書きますと、「人に大きな影響を与える(変化を生み出す)ことを必要とされている表現は、酔っ払いカナリア的表現でなければならない。もし、表現の影響力が十分でなかった場合、環境や社会など表現外に原因を求めるのではなく、それが酔っ払いカナリア的表現ではなかったこと、ガスそのものでしかなかったことを反省すべき」ということでした。

まあ明らかに、他には誰も覚えていないですね。それに値する幻想的な発言という気がしないでもないですが、自分はこの発言どおりに考えることにしようと思いました。

Turn off your mind, relax and float downstream
It is not dying, it is not dying
Lay down all thoughts, surrender to the void
It is shining, it is shining
That you may see the meaning of within
It is being, it is being

That love is all, that love is everyone
It is knowing, it is knowing
That ignorance and hate may moum the dead
It is believing, it is believing
But listen to the color of your dream
It is not living, it is not living
Or play the game existance to the end
Of the beginning, of the beginning,
Of the beginning, of the beginning,
Of the beginning, of the beginning,
of the beginning…

 

21. 3月 2013 by outsidervoice
Categories: 理科, 生活, 社会, 総合 | Leave a comment

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