#0092) 洒落と進化。適応と進化ではなく。
ヒロヘリアオイラガという枯れかけの葉に擬態した蛾が、灰色のペンキ塗りの壁にとまっていて、まあ、擬態の意味が全く無い状態であったので、娘と私に見つかり写真を撮られたわけです。
擬態には、これ以上に見事な例がたくさんあるわけですが、そこまでする理由はあるのかと考えると、進化というか適応の過程というか、遺伝子の基本機能みたいなものには、「洒落」みたいなものが組み込まれているようにしか思えません。というか、「適応」より上位の目的(快感?)として「洒落」があるような気もするのです(まあ厳密に考え始めると、「どんどん枯れかけた葉に似てきたヒロヘリアオイラガが、そのことをうれしがっていたと、どうやってわかるのだ?」 とか思うわけですが・・・、今回は、そっち方面、やめときますね)。
人間も「適応」などにはあまり情熱を持てなくて、「洒落」の方に、より意義を感じやすい生物と考えるのは私だけかも知れませんが、他の生物も人間も同じく「洒落」優先ではないかと考えると、良く見るとどれもまちがいなく奇妙である他の生物たちと、なんとなく心が通うような気がするのも私だけでしょうか。少し戻って、皆まちがいなく奇妙である他の「人間」たちとも・・・。
というような見解の上に立てば、娘の幸福?を願う親としては、適応することなんかより、「洒落」ることを優先するよう、日々伝えるべきですね。