#0054) 自然破壊としての農業、人工物としての野菜や家畜。と書くと魅力的でしょ?
4月以降、ミニマルな農業みたいなことをやってみようかと思っています。
有機か有機でないかとか、自然か工業的かとかなどの区別には拘らないで、自分がその場所にどのように乱入してしまうのかを、幅広く反省しながら楽しみたいというのが希望です。
それまでにいろいろと本を読んだりしておこうと思うのですが、良い本がありました。廃刊になっているみたいですけど。著者も亡くなっているみたいです。聴講したかったです。
娘は「毛虫とか嫌いな虫が居ないのなら手伝いたい」と言いながら、こんな絵を描いています。
#0053) リサイクルの浸透とデフレーション。あるいは、インフレターゲットがターゲットとする数字ではなく分野の話。
1年半前に6万円弱で買った窓用エアコンをリサイクルショップにもって行きました。5,000円いただきました。
ブックオフで本を売るときも同じですが、所有している間のモノの価値の減衰は、自分の将来の購買意欲も確実に減衰させるのでした。
「結局リサイクルショップに売るようなモノは、もう絶対に買わないぞ」と。
この思考の中で、購買意欲が残るモノ(後悔が想定されないモノ)は、最後まで使い尽くしたいし使い尽くせるモノか、所有時間によって転売価値が下がらない(あるいは上がる)モノということになります。
「最後まで使い尽くしたいし使い尽くせるモノ」が何なのかの答えは難しいですし、人によっても違うでしょうが、「所有時間によって転売価値が下がらない(あるいは上がる)かも知れないモノ」については、一般的な答えが簡単に想定できます。
無茶苦茶簡単でいい加減な展開の文ですが、結論としては、数年間のインフレがあるとすれば、大きな分野では金とか株とか土地などということになります。そして小さなところでは骨董品や美術品でしょうか。かつてのバブルと何が違うのかですが、それは、製造物などに来る余波がますます大したことがなくなる、それからより世界全体を巻き込むということではないでしょうか(世界全体を巻き込むことと、人それぞれの中でどれだけの重みがあることなのかは、それほど関係ありませんが)。
さてここで、さきほど考えるのをやめておいた「最後まで使い尽くしたいし使い尽くせるモノ」の話に戻るのですが、この辺は、あまり経済政策とかに向かないと思います。金額で計算できないモノが多そうですし。「存在」みたいな感じのモノとか・・・。
以上のようなことを昨日、車の中で考えました。行き先は娘の要望に沿って下の写真。#0011とも関わりますが、「子どもを食い物にする資本主義」と言われるものが充満した空間です。でも、食う側の勢いは全然ありませんでした。人は何万人もいましたけど・・・。勢いが無いのは、金のことか段取りみたいなことしか考えていないからですね。国の「クール・ジャパン」政策みたいに。
娘の一番の希望は、プリティーリズムのゲーム大会に参加することだったようですが、この人手の中で先着180名限定だかの整理券をもらえるわけもなく(子どもに弱い私は早起きに付き合い朝6時に現地に着いたのですが既に長蛇の列)、帰り道のショッピングモールで娘は同じゲームを少しやったのですが、そのモールの中庭では、トランポリンの上で安全ゴム紐を着けて5メートルくらいの大ジャンプを20回くらいさせてもらえるという商売(¥1,000)が行われていて(体重70kg以下限定)、ちょっと高すぎる(料金の方)と思いながらも娘のために支払ったのでした(自分の嗜好とは異なることばかりした一日でした)。
で、予想どおり娘の頭の中は以後、初めて経験した高さのジャンプ一色になっており、初めて経験した寒さに数時間震えた後の巨大イベント?のことなど、結構どうでもいいことになったのでした。
#0052) 老人サンプル その1
初対面の人から、こういう老人がいることを教えてもらいました。
やはり、齢をとるのも悪くないですよね。まあ、どう思っていようと齢はとるわけですが。
何よりも悪戦苦闘が、一番楽しいということでしょうか。
#0051) 見ているものとは光によってつながっている。聞いているものとは音によってつながっている。そして、快適な暖房のエネルギーは、当然、無から湧いてきたものではなく、どこかからやってきたもの。
言いたいことがまとまらないまま書きます。#0050の続きのような気がしないでもありませんが、そこのところも、よくわかりません。
日揮の誰かの死にも、テロリストの死にも、少なからず、昔に比べれば相当誰でも関わりがある世界(事情がわかっているという意味ではありません)での「客観」風なアプローチは、結局誰にとってもどうでもいい話になりがちなのではないでしょうか。光や音やどこかからかやってきたエネルギーをどう解釈するかなど、つながり具合はいろいろであるわけですが、その、それぞれの特殊事情しか面白くない(それしか知る価値がないように感じる)のは、小学生の作文も同じですね(唐突に#0004のことを思い出しました)。特殊事情のほんとうのところを探求し続けるのは、まったく大変な作業だとは思いますが・・・。キリがないですし・・・、結局よくわからないことがほとんどという状態のままでしょうし・・。
娘は変な生き物の絵を描きながら、時々ロードレースの練習をしています。父親より遅いことが、少しずつしゃくに障るようになってきたようです。たぶん1ヵ月後くらいには抜けるのではないかと思いますが・・・。
#0050) プレーヤー感覚
Live on KEXPのビデオをいろいろと見ていると、プレーヤーの気持ちや感覚をとても良く捉えたというか、感覚を共有できるような撮り方と編集をしたビデオがありました。
カメラの基本ポジションのひとつが観客を見る側(プレーヤーの背後)にあることと、どのカメラも被写体に近いことが、最もわかりやすい特徴ですが、画質の良さも不可欠な要素です(できれば良い通信環境と良いモニターと良い音環境で楽しんでください。この映像の特徴がわかりやすいので)。この映像をモニターいっぱいに拡大して観ていると、きっと、音楽と関係ないタイミングで聞こえるスチルカメラのシャッター音が邪魔に感じると思います。それほど小さい音でも、「自分が作り出している(と感覚してしまう)音や雰囲気」に立ち向かってくる感じがするからです。
観ている人皆が強く意識する違いではないかも知れませんし(コメントしている中の一人は気づいてますね)、他のLive on KEXPの映像で同じ撮り方をしたものがないことから考えると制作者が意識して撮ったものかどうかもわかりませんが、インターネット時代の(というか当事者)感覚と思考を意識したカメラワークがやっと出てきたという感慨を抱いています。ミュージシャンの最初の引き込み方や、それを活かすための編集や、カメラマンの対象の見方や意識の仕方や客観と主観のバランスのとり方や、楽器との一体感の理解などが関係しているので、カメラ位置を真似してもこの感じを引き出せるわけではありませんが、このようなライブビデオだけでなくドキュメンタリーやスポーツのカメラワークも、気づかれることも無いくらい少しずつでしょうけど、変化してくるのではないでしょうか。
で、それはたぶん、標準的なものの見方や感じ方も、気づかれることも無いくらい少しずつ変えるのではないでしょうか。
映像をつくることから少しずつ離れていましたけど、こういうカメラワークを小さな題材でいろいろとテストしてみたくなりました。たぶん、いろんなものが違うものに感じられるのではないかと・・・。
娘には、「魂を撮る方法を考えている」とか言えば、何となく伝わるでしょうか。




